苦・後・楽:湯山泰男(高7回)
(本文は、1988年6月に発行された「東京香陵同窓会20周年記念会報」に掲載された文章をご本人のご了解をいただいて一部編集させていただきました。)
我々の母校に陸上競技部が出来たのは、沼中第二十回卒業生が在学中である大正十年前後だったと聞いている。(大正十年第一回県下体育大会の入賞者に沼中先輩の名前が出ている。)いづれにしても七十年近い歴史があり、私を含め沢山の若者達があの独特の臭いのある部室から次のステージへと巣立って行っている。
私が東高に入学した昭和二十年代は、日本が戦後の混乱からようやく立ち直りつつある時期であったが、それでもまだ競技大会のため遠征して旅館に泊まる時は、米を持参しなければならないような時代でもあった。当時の山線(御殿場線)にはSLが引く列車が堂々と走り、富岡村(現裾野市富岡地区)から通学していた私は今でもあのもの哀しげな汽笛の音を、ラジオやテレビで聞くたびに高校生時代を思い出す。
在学中の部活動の思い出と言えば、歳の近い先輩等にインターハイ優勝などの輝かしい経歴を持つ方々がおられ、合宿などでは適切な指導をしていただいてはいたが、当然のこと練習は厳しく、最初の頃は貧血を起こし真っ青になってグランドに倒れることもしばしばあった。特に短距離走をやっていた私にはとてもきつい毎日であったが、数ヶ月も経つ頃には、ある程度体も慣れ要領も覚え、練習にも何とかついていけるようになり、苦しさの中にも少しのゆとりが持てるようにもなっていった。
ただ、短距離走のような個人競技においてはすべてが自分の責任であり、やり直しが効かない。そのためには常に自分に厳しくしなければならなかった。 「練習で泣いて試合で笑え」とはよく言われているが、実際、試合で泣く事が多かったのは「頂点に立つのは一人だけ」の競技では無理もない。
さて、当時を思い出しながら書いてきたが、まるで楽しさが全くなかった訳ではない。 やはり勝負に勝った時の感激は今までの苦しさを忘れさせてくれるし、たとえ負けたとしても自己の最高記録を出した時などは、悔しさもあるが格別に気持ちのいいものだった。
苦い思い出だが、三年生の時、東海四県大会の百メートル準決勝で肉離れを起こしてしまい、大変ショックを受け、その時何度も競技部を辞めようと思ったが、同僚たちの励ましのお陰で何とか挫折せずに済んだ。
現在も陸上競技部は、二年に一回程度沼津に集まり、顧問だった先生や在校生なども出席してもらい励ましの会になる時もあるが、皆が在学中の時代に戻って旧交を温めている。
これからも同じ部に所属し、同じ目的を求めて練習をした仲間同士が幅広い交流を持って より一層の絆を築いていくことを願っています。
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