ああ沼津中学!:井上靖(中22回)

(本文は、1988年6月発行の「20周年記念会報」に掲載された文章です。小説家:井上靖氏の在学中の思い出が綴られています。)

私は、浜松中学で一年生の課程を終え、二年の初めに沼津中学へ転校した。大正十五年、十五歳の時である。そして沼津で、十五歳の春から十九歳の春まで、少年時代の四年間を沼中生として過ごさせて貰った。

転校したての二年生の一年間は、三島の親戚から徒歩で通学したが、三年生、四年生の二年間は、縁故をたよって、沼津下河原の妙覚寺に置いて貰って、そこから通学した。寺に置いて貰ったのは勉強するためであったが、どういうものか、これが裏目に出て、寺を拠点として、毎日、毎日を、楽しく遊び暮させて貰った。当時、父親は軍医として台北に赴任しており、家族の者もみな台北で暮らしていたので、私の場合、中学時代はずっと家族と別れていて、監督者というもののない生活であった。

五年生になった時は、こんどは本当に勉強するつもりで寄宿舎に入った。併し、寄宿舎に入ったからといって、勉強ができるわけのものでもなく、全寮ストームなるものを、多少派手に指揮し、問題となり、一人だけ寄宿舎から出されて近所の農家の一間に隔離された。併し、ここはここで、何とも言えず恰好な、仲間の楽しい遊び場になり溜まり場になった。

いま考えると、この沼中時代は、私の八十年の生涯で、最も贅沢な時期ではなかったかと思う。この時代を振り返ってみると、″夏は夏草、冬は冬波″である。或いはこれをひっくり返して″夏は夏波、冬は冬草″と言ってもいい。一年中、歩き廻っていた舞台は千本浜と香貫山であったのである。歩く以外にすることはなかった。二・三名、あるいは四・五名が一団となって、啄木か誰かの歌をどなりながら、足の向く方に歩いていたのである。野球を見た記憶もないし、映画を見た記憶もない。ただ毎日歩いていたのである。併し、充分楽しかった。机に対って書いたり、読んだりした記憶は殆どないから、勉強というものとは無縁であったのであろう。

いま振り返ってみると、何とも言えずいい、青春の一時期である。学校はさぼらず、毎日登校したが、さぼるより登校する方が楽しかったのである。教室に入っている時も楽しかったし、校庭に居る時も楽しかった。教室は教室でよかった。睡くなると、先生の声が遠くなり、ふと顔を上げると、先生の声が近くなった。贅沢な眠りであった。厳しい先生も、優しい先生も居た。程々によく組合わされていた。

どのクラスにも、秀才も配され、落第生も配されていた。秀才が威張るわけでも、落第生が肩身狭い思いをするわけでもなかった。併し、秀才は秀才として、多少の尊敬を集めていたようであり、落第生は落第生として、これまた多少の尊敬を集めていたようである。

先生たちはみな個性的ですばらしかった。誰がつけるのか、ニックネームはどれも単純で、生き生きとしていた。それから六十何年経った現在でも、先生の顔がそのニックネームと共に憶い出されてくるからふしぎである。なぜか教室の先生より、校庭をひとりで歩いていた先生の姿の方が眼に遺っている。

校庭と言えば校庭もすばらしかった。一体、あの校庭は、運動場は何であったのであろう。開放的で、自由で、四季それぞれの風が渡り、陽光が静かに落ちていた「青春の空間!」あちらの隅では少年が槍を投げており、こちらの隅では、鉄棒にぶら下がった少年の体が、風車のように廻っている。そして運動場を大きく縁っている芝生の上では、何人かの少年たちが屯したり、仰向けに横たわったりしている。少し離れたところに、ひとりで本を開いている先生の姿も見える。

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