香陵族の最後のひとり:原田 眞人(高20回)

(本文は、1988年6月の総会時に発行された「東京香陵同窓会20周年記念会報」に掲載されていた原田眞人氏の文章の一部を転載させていただきました。)

学校より映画館で過ごす時間が多かった、とは言わないが、東高に入った時から、映画狂だったことは確かだ。

私の家は当時、沼津駅の近くにあり、学校までは家の前の道を真っ直ぐ下って市立病院に出、右折して三枚橋を越え、左手に狩野の流れを見下ろし、正面やや右手に香貫山を見据えながら土手堤を歩いて第四小学校脇道に降り、そのまま正門まで数ブロック直進する所要時間十分程のコースが、田中康夫あたりでも実践しそうな「由緒正しい」通学路であった。(この「由緒正しさ」は後年、監督デビュー作「さらば映画の友よ」で主役の川谷拓三にコースの一部を歩かせることで完結している)ともかく、私の家と東高との間に映画館はただの一館も存在しなかった。

あれば、学校で過ごす時間はもっと少なくなっていたかもしれない。

(中略)

私は、文字どおり、映画しか頭になかった。ひっそりと、映画の仕事で食べて行ければ、と考えた。その響きにある「暗さ」は映画館の暗闇ほどに暗くはなかった。

というのも私は、家の近所の暗闇にやってくる光明を座して待つ観客ではなかったから。バイクの免許を取ると、月に2・3度は好みの光明を求めて静岡まで国道一号線を走らせた。沼津より、そして静岡より早くつかまえたい作品は、東京まで足を伸ばした。

映画を求める肉体の行動値が増加するにつれ精神もアクティヴになっていた。二年の時には、ひっそりと映画の作り手になりたいなと思った。集団のエネルギーとは離れたところで映画への情熱を低い声音で語る仕事。脚本家である。

(中略)

つづく

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