第1回志賀高原教室のこと:常松 裕志(高11回)
(本文は、1988年6月の総会時に発行された「東京香陵同窓会20周年記念会報」に掲載されていた常松裕志氏の文章を転載させていただきました。)
昭和32年7月、第1回の志賀高原教室のことである。流感が猛威をふるい、同級生たちがバタバタと倒れた。私もとうとう丸池を発つ朝に40度の発熱で、イガ栗頭を水枕に、額には氷のうと・・・。
2ヶ月以上も準備を重ねてきた高原教室は、あいにく、来る日も来る日も雨。笠岳も横手山も、池めぐりコースも霧と雨で。楽しみにしていたキャンプファイヤーも、そこそこに切り上げ、練習を積んできたフォークソングもほんのわずかの時間しかできぬ有様。にもかかわらず、高11回が集まると、今でもこの31年も前の志賀高原で4日間に話の花が咲く。
「新幹線のないあの頃、丸池まで10時間以上もかかった。でも楽しかった列車の中。輸送班の組織力はたいしたものだった。」
「東高の歴史に初めてフォークソングを持ち込んだ。校庭で練習をしていると、やきもち焼いた3年生たちが石を投げてきた」
「俺たちもあの輪の中に入りたいのだが、照れくさくて君たちが羨ましかったとさ」
「あの時、歌集で覚えた琵琶湖周航の歌やカチューシャは、今も忘れない」
「流感で倒れた君を、あの子が甲斐甲斐しく看病しているのを見て、妬けた」
「何故君は、最後の日の朝、丸池のボートに誘ったのに断ったのか!覚えがないって?それはないよ。君に恋していたんだよ!」
高11回は実によく集まる。誰かの帰国や転勤、立候補、単身赴任、理由には事欠かない。 私は思う。それは東高の校風、とりわけ、志賀高原教室での体験の賜物だ、と。
その頃は、旅行業者が作ったメニューだけをこなす京都・奈良への修学旅行見直しの機運が高まっていたようだ。我が母校は、当時30代だった若い先生たちを中心に、生徒たちに準備・企画・部屋割・運営の全てに参加させ、大自然の中にその若いエネルギーを燃焼させる途を選んだ。定番の修学旅行を廃止し、志賀高原教室を創ったのである。
私たちは幸せである。豊かな思い出があるからだけではない。自然や山を愛する気持ち、演歌の他にうたえる歌、そして先生たちとの固い絆が、今も続いて残っているからである。試験とスポーツ以外の面で素晴らしい能力を発揮する友人への尊敬の念を今も持ち続けているからである。
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