青春の思い出:石川悌二(高2回)
(この文章は、昭和62年6月5日の「第19回総会」に発行された東京香陵同窓会会報第5号より転載させていただきました。)
新緑の季節となると、なぜか香貫山が思い出されてならない。みずみずしく萌える若草。しなやかな若草。全山に青春の息吹が満ち溢れ、若者の血も滾らせてくれる。香貫山に何度登ったことか。空襲、敗戦、戦後の復興、学制改革、私達の世代は、沼津市を見おろせるあの香貫山にそれぞれの思い出があるに違いない。
香貫山の右隣りに、ほぼ同じ位の高さの象山と呼ばれる山がある。昭和24年5月、三年生の時である。何人かの悪童どもと、転校してきたばかりの女生徒2、3人を誘い、午後の授業をさぼって、この象山に登った。青春を語り、野原を駆け巡り、山を転げながら帰校した。私達を待ち構えていたのは、仲間達の羨望と非難の入り混じった眼差しであった。波紋は広がり、所謂、「象山事件」として学校の内外に喧伝された。 わずか、一ヶ月前の四月、「お上の命令」によって、はじめて女子の入学が認められ、近隣の女学校から何人かの女生徒が転校して来た直後のことであったから、コペルニクス的転回とも言うべき男女共学の成り行きや如何にと固唾を呑んで見守っていた教育関係者、マスコミ、教師、父兄等に好個の材料を提供することとなった。
学校側の対応も、困難を極めたに違いない。不問にする訳にもいかず、といって折角始めたばかりの男女共学制度にケチを付けることも出来ない。当時の芝校長、石内先生等は旨い手を考えた。生徒の自治に委ねられていた司法委員会に、この件を預けその処置をまかせたのだ。判決の内容がどういうものであったかは定かではない。食べる物、着る物、何もかもが乏しい時代であったが、夢と希望に胸を膨らませた私達の青春がそこにあった。香陵は、いつまでも私達の青春のふるさとであって欲しい。
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